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小槻神社
2012年05月09日
草津市青地町873
志津小学校の両横の道が合流した所
鳥居をくぐって右に延びる参道、脇へ入れば境内社(野神社・八幡社、龍王社)が点在
手水舎、右うしろに古い扁額が無造作に置かれている
石垣の石はこのあたりの古墳のもの
志津小学校の両横の道が合流した所
鳥居をくぐって右に延びる参道、脇へ入れば境内社(野神社・八幡社、龍王社)が点在
手水舎、右うしろに古い扁額が無造作に置かれている
石垣の石はこのあたりの古墳のもの
Posted by
郷禄介
at
00:14
│Comments(
1
) │
草津市(ア~カ行)
この記事へのコメント
ここは色々と気になるものが多いところです。
1.古墳が多く発見されている地域なので、古墳から神社には、どのようにして変わったのだろう。
2.小槻大社との間にある現在の十二将神社の元の天台宗 楽音寺とは、どんなお寺だったのだろう。
3.名神高速道路が出来る前の小槻大社と小槻神社との間はどのような状態だったのだろう。
今でこそ住宅が多くあるところですが、30年前は新草津川も無く田んぼと原野が残る風景でした。この神社の裏の志津小学校は青地城跡で、今見てもよくわかりますが、信長が焼き討ちするまでは城下町も広がっていたようにも思います。衰退を繰り返し、今は住宅の立ち並ぶところですが、いつの時代も目まぐるしく変化している地域に思います。
1.古墳が多く発見されている地域なので、古墳から神社には、どのようにして変わったのだろう。
2.小槻大社との間にある現在の十二将神社の元の天台宗 楽音寺とは、どんなお寺だったのだろう。
3.名神高速道路が出来る前の小槻大社と小槻神社との間はどのような状態だったのだろう。
今でこそ住宅が多くあるところですが、30年前は新草津川も無く田んぼと原野が残る風景でした。この神社の裏の志津小学校は青地城跡で、今見てもよくわかりますが、信長が焼き討ちするまでは城下町も広がっていたようにも思います。衰退を繰り返し、今は住宅の立ち並ぶところですが、いつの時代も目まぐるしく変化している地域に思います。
Posted by 山川草木 at 2012年12月15日 11:21
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